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声なき問いが 分断を超えていく

分断の時代に、問いを持ち続けるということ

— SNSと情報の海で、私たちはどう向き合えばいいのか —

無責任な言葉が、正義になる?

かつて「マスメディア」と呼ばれたテレビや新聞は、一定のチェック体制や倫理規範のもとで情報を発信していました。もちろん、それが完璧だったわけではありませんが、誤報があれば訂正が出るという制度的な担保があったのです。

一方、今のSNS時代では、影響力を持つ個人が感情的で断定的な言葉を自由に発信し、それが瞬く間に拡散されていきます。「何を言ったか」ではなく、「誰が言ったか」や「どれだけ共感されたか」が正義とされてしまう。その流れに、私は強い危機感を覚えています。

「分断」が、本当の問題かもしれない

一つの問題に対して意見が分かれるのは、社会にとって健全なことです。多様な視点や立場があることは、本来、自然な状態だと言えるでしょう。

しかし、今の状況は「意見の違い」ではなく、「相手の否定」になっていると感じます。異なる立場を取る相手を敵と見なし、攻撃や排除の対象にしてしまう。これでは、対話が成立しません。

問題そのものよりも、むしろこの「分断」こそが、今私たちが直面している深刻な課題なのではないかと思います。

見たいものしか見えなくなる社会

SNSや検索エンジンのアルゴリズムは、ユーザーの興味関心に基づいて情報を最適化します。それ自体は便利な仕組みですが、同時に「自分の信じたい情報しか届かない」世界を生んでしまいます。

たとえば、一度陰謀論的な話題を検索すれば、関連情報ばかりが次々と表示されるようになり、気がつけば「それが世界の真実だ」と思い込んでしまう。こうして、人は自分の信念を強化し続け、異なる意見に触れることすらなくなっていくのです。

この構造は、情報空間における「孤立」を生み出します。そして、異なる立場を理解しようとする姿勢が、どんどん失われていくのです。

クリティカルシンキングとディベート文化の必要性

だからこそ、私は日常の中で「クリティカルシンキング(批判的思考)」を大切にしています。情報を鵜呑みにせず、その背景や発信者の意図、構造に目を向け、「本当にそうなのか?」と自分自身に問い直す。これは、情報の海で自分を見失わないための、思考の羅針盤だと思っています。

また、日本でももっと根付いてほしいのが「ディベート文化」です。意見が異なるのは前提で、そのうえで相手の立場も理解しようとしながら議論を交わす。勝ち負けではなく、相互理解を目指す対話のかたち。そうした文化が、分断の時代にこそ必要だと感じています。

「わからない」と言える強さ

最近、兵庫県知事をめぐる一連の報道が話題になっています。行政の透明性や説明責任は当然のように問われ

分かれ道に立つるべきですが、それと同じくらい注目すべきは、私たち社会の「反応のあり方」です。

怒り、揶揄、断定的な言葉が飛び交い、誰が敵で誰が味方なのかという空気に支配されていく。そんな中で、私はしばしば「これは本当に正しく理解されているのか?」と不安を覚えます。

そして、正直に言えば「どうすればよいのか」は私にもわかりません。でも、その“わからなさ”を軽んじず、大切に抱えながら問い続けていくことこそが、誠実な態度だと信じています。

静かな問いを、絶やさずに

いまの社会では、声の大きな人、感情の強い発信が目立ちやすい傾向にあります。でも私は、静かに問いを重ね、考え続ける人こそが、未来に必要な存在だと思っています。

感情に流されず、一歩引いて考えられる人。違う立場の声にも耳を傾け、「なぜそう思うのか?」と想像できる人。そして、対話を諦めない人。

そういう人が目立たなくても、社会の深いところで確かに“希望”を灯していると、私は思います。
分断の時代にこそ、静かな問いの力を信じたい。

この文章が、どこかで誰かの思索に寄り添えたなら。
同じような違和感を抱いている人に届いたなら。
それだけでも、きっと意味があると信じています。

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